Vol. 1-7 神無月のころ

10月に入る頃父は頻繁に吐き気を催して食欲がなく、出された食事のほとんどを残した。栄養補給のために点滴が始まった。腹が張って腫れていた。10月2日の夜中、父は嘔吐を繰り返し、吐き出した胃液と腸液の量は病室に備えられたバケツ型のゴミ箱3杯分にもなった。腸閉塞を引き起こしていた。がんに侵された臓器が胃腸を圧迫し、また腸そのものが細くなっていたために行く手が遮られて逆流したのだということだった。胃に直接栄養分を注入するるために鼻からチューブが入れられた。痩せほそった父の顔の右側は帯状疱疹に覆われ、無残な有様だった。それは右の耳をふさぎ、口の中は真っ白で歯ぐきから舌まで膿んでいるようだった。酸素吸入用のチューブや眼鏡さえもただれた皮膚が痛くて、耳にひっかけるのに苦労した。また点滴の副作用か、昼でもよく眠っていて時折目覚めてベッドの手すりをつかみ自分で体を起こすものの以前のような力はもうなかった。足が特に衰えていて、立ち上がることはできても用を足すには人手が必要だった。当初払いのけた手助けも受け止めるようになっていた。譲歩、降参は介護の便宜上好都合だが、互いの心はきっと辛い。意地とプライドを常に持っていた父だけに。

病状が悪化していく父を緩和ケア病棟に移す案内が来た。緩和ケア認定看護師とソーシャルワーカーとの面談が始まった。緩和ケアはホスピスと異なり、死ぬ場所ではなく、飽くまで治療を続けながら、患者にとって人間として最良の療養を促すところなのだと後で聞いた。でもその時は何も知らず、父をそこへ移して余計な疑念や不安を抱かせるのではないかと懸念していた。入院費無料はありがたかったのだけど。緩和ケアへの移行、在宅療養、蘇生、延命処置の有無等、父にとって何が最良なのか、家族全員で決断すべき件が山積みだった。一足早く帰国していた姉が終日あらゆる手続きやら面談やらに奔走していた。

2017年10月6日、再び故郷の土を踏んだ。これほど重たい気持ちで帰省したのは初めてだった。トランクには黒のスーツが入っていた。

私の毎日は朝8時に自宅を出てパン屋に寄って、病院1階のコンビニでドリップコーヒーを2つ買い、病室で両親と朝食を共にすることから始まった。その後父には私が付き、母は仕事へ赴く。夕方姉と婚約者が夕食を持参し、仕事を終えた母と全員で夕食を取る。そんなパターンが誰が言うでもなくいつの間にか成立していた。

病院まで朝の田舎路を歩くのは実に気持ちがいい。自宅近隣の古い民家が次々とモダンなつくりのものに建て替えらえたり2階建てのアパートに替わったのは残念だが、それでも自宅周辺は何とも言えない懐かしさが漂う。2歳から大学で東京に出るまでの15年間両親が建てたこの家で過ごした。小学生の頃は毎日のように隣の家の男の子と弟と3人で神社の森を探検したり、セミを素手で捕ったり、野苺を取って食べたり、ツツジの蜜を吸ったり、農業用水路でザリガニを探したり、自転車で近所を暴走したりして遊んだ。父が暇だったのか、私たちを監視するためだったのか、たまに帰ってきて一緒に遊ぶこともあった。父は器用で、竹でおもちゃを作ってくれた。竹とんぼ、竹馬、くす玉鉄砲、弓矢。父が遊び方を指南してくれるのだが、私は全てへたくそで長続きはしなかった。狭い路地を線路沿いに抜けると左側が開け、田畑の向こうに飯塚のシンボルであるボタ山と、どっしりと鎮座した龍王山とが一望できる。高校生の頃は自転車通学で、毎朝その田園風景の真ん中の農道を風を切って走るのが好きだった。そして龍王山の様子でその日の気分が決まるのだった。今でも龍王山の緑が濃く鮮明で、朝日を浴びてダイナミックな影をくっきり落とすのを見ると、守られているような安心感と透き通ってひやりとした空気とで思わず深呼吸したくなる。そんな風景を横目に私は毎日病院へと歩いた。キンモクセイの匂いがした。10月というのに太陽の熱と湿気とで、未だ秋本番というよりも残暑という方が適当で、このどこからか漂ってくるかぐわしい空気と朝夕に吹く涼しげな風のみが季節の便りだった。

今日のコラージュ 『満ちる』24×48インチ

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