Vol. 1-8 予感

東向きの病室は朝日がきつい。ベッドに横たわる父の顔にブラインドの筋が投射される。博多へ向かう列車がしばしば軽やかなレールの音を8階の病室にも届けた。父は窓際に座って景色を眺めるのが好きで、一言二言あの建物がなんだとか、あの山がどうのとか言った。快晴の日には遠く英彦山が蒼くその奇怪な様相を表すのだが、毎日のようにその山が見えるか否かがちょっとした話題になった。父が眠りにつくと、私は新聞広告で鶴を折った。仕事でお世話になっている方の奥様が既にたくさんの鶴を父のために折って届けて下さっていたので、それに便乗したわけだ。それくらいのことしか私には父のためにやってあげられなかったし、そうでもしていないと閉塞で無機質な病室で精神的にやっていられなかった。ほとんど意地で5㎝四方形を大量に切っては鶴を折り続けた。

10月8日弟一家が東京から駆けつけた。久しぶりに会う小学3年生の孫は物怖じせず、父と母との対面にはしゃいでいた。一方の父は物事を把握はしていたようだが、言葉少なに孫を見つめていた。この頃から父は言おうとすることがなぜかうまく口に出せないようで、それが自分でももどかしく苛立ちを覚えるようになっていた。もともと聴力が低下していたことも手伝って、次第に言葉を発しなくなり、頭の動きと手ぶりとで意思を伝えようとするようになった。なるべく口でものを言わせようとしたが、声もだんだんとかすれ始め、か細く枯れていった。何を言ったのか誰かが聞き返すと、2度繰り返すのは苦痛であきらめてしまうのだった。発音することそのものが負担になっているように見えた。それでも、父が何を言いたいのかわからず困惑顔の私に業を煮やして、「しょんべん」と懸命に言ったときは申し訳ないが笑わせてもらった。

栄養摂取が点滴のみに替わって病院からの食事はカットされたので、気分がいいとコンビニで好物のラーメンを買ってきて食べてもらった。3日連続でラーメンを食べても胃腸は正常に動いていた。たまに車いすに酸素ボンベと点滴をセットしてもらい、父を乗せて院内を徘徊することもあった。10月11日の昼下がりも同じように車いすで院内をうろうろしていた。1階のコンビニ前で父にアイスクリームでも食べるかと聞くと、意外にも「うん」と言い、しばらく何かを必死に考えていたが、ようやく「ウエハース」と言った。嬉しくなってウェハースに何となく近いモナカアイスを速攻で買って父と裏口に出た。日差しが強かった。鉄骨の非常階段下の日影に入り、麦わら帽子を被った父に半分渡した。父は目をつぶって一片をゆっくり口にほうばり、そして目を閉じたまま今度は見上げてゴクリと飲み込んだ。通りがかりの初老の男性が笑顔で言った。

「おいしそうに食べよんしゃぁ。」

これが父と過ごす残り少ない貴重な時間であることはわかっていた。ひとつのアイスクリームを父とシェアできたこの短い時間がこの上なく愛しかった。でも私はその直後、父のちょっとした変化に気づく。普段は30分もうろうろすると「帰ろうか」ということになるのだが、この日はなぜか父は頑なに病室に帰りたがらなかった。最後は輸液ポンプの電池が切れるアラームが鳴ったので帰らざるを得なくなったのだが、それがなければ私たちは数時間は徘徊していたことだろう。その日の夕暮れ時には姉と婚約者と車で外出、父の生家の前を通り、母の生家で義兄一家に挨拶、その後父の希望で菩提寺まで足を延ばし手を合わせた。父は何かを予感していたのかもしれない。

翌日10月12日未明父は一人でベッドの手すりや点滴スタンドをつたってトイレに行こうとして転倒し、母が助けてベッドに戻したものの激痛に苦しみ始めた。転んだショックががんの痛みの引き金になったのだろうか。右肩と腰の痛みがひどく、「もうだめ」とか「なんとかしてくれんやろか」などとそれまでにない悲鳴を上げていたという。病室を訪れると父はベッドに腰掛け、うなだれて痛みにじっと耐えようとしていた。痛い背中をさすってあげたが、力を入れていないのに痛がる。目を閉じたまま「やさしくして」とつぶやくように言い、我慢できないときは隣に座る私の腿をばしばしと平手打ちした。

「このまんま終まえっしまうとやなかろうか。」

疲れ果てて父が絶望の声で言った。

無力で情けなかった。父がうめき声を上げる度に、さすりながら「ごめんね」としか言えなかった。幾度かそう言った私に父は一度だけ目を開き私を見つめて「お前のせいやなかろうが」と言った。一刻も早く主治医が対処してくれることだけを祈った。

 

今日のコラージュ『癒しの手』

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