Vol. 1-9 闘い

2017年10月12日昼過ぎ、激痛に苦しんでいた父に主治医はより強い鎮痛剤を処方した。強オピオイドに分類される液体麻薬(フェンタニル?)で、皮下注射で投与される。シリンジポンプと呼ばれるプラスチック製の箱に注射器が入れられ、投与する流量と頻度を設定できる。そこからチューブを通して父の体に入る仕組みだ。もし急な痛みの場合はスイッチを押せば1回に許される流量が一気に投与される。少量から始まったその薬の投与量は速いペースで増加されていった。父の痛みに合った投与量を見つけるまでに2日かかった。やっと痛みが薬で管理できるところに落ち着いたが、その副作用で再び食欲をなくし、寝てばかりになった。立つ力が衰えるばかりか、寝た状態から体を起こすにもそれまでは両手を引っ張れば起きられたのが、次第に私の腕を父の背中に回して抱え起こしてあげなければならなくなった。ベッドに腰掛けた状態から横になるのも容易にできなくなっていった。無理に寝かそうとすると「やかましい」と怒鳴られた。自分で横になるのがベッドから落ちるような感覚があって怖いのだとその数日後にわかった。夜中のトイレの援助は母一人では手に負えなくなっていた。毎日が異なった。今日学んだことが明日通用するとは限らなかった。

10月13日金曜、介護保険の審査のために市から女性職員が訪ねてきた。くしくもそれは父の痛みがひどい日で、父は面接どころではなかった。彼女は早々に済まなさそうにして病室を後にし、姉と看護師としばらく話して帰っていった。10日後「要介護5」という結果が出た。もし自宅療養にした場合、これで最高レベルの介護サービスが受けられることになったのだ。自宅に帰してあげたい気持ちは十分にあった。しかし父の手助けをする毎日の中で介護という現実を体感し始めていたこの時期、自宅療養が賢明な選択かは甚だ疑問だった。それを私たちは1週間ののちに垣間見ることになる。

10月21日土曜は父の75歳の誕生日、24日は結婚記念日だ。父を自宅に連れて帰り家族全員で祝うことが何より最大の希望だった。そして日曜日は親戚や友人を招いて姉の結婚式を行い、ちょっとしたガーデンパーティを開く計画を立てていた。主治医に土日外泊の要請をしたが、この頃の父の状態で許可は出せないと断られた。それならせめて土曜外出だけでもと、母と話していたところに緩和ケア認定看護師から土日外泊の実現に向けてサポートするというありがたいお言葉があった。看護師はその週末が山場だと見ていた。だからこそ家族との最後のプライベートな場を実現するために尽力してくれたのだ。緩和ケア病棟に移るかという話題はいつもあった。が、自宅療養にしろ緩和ケアにしろ、その週末を乗り切ることができたのちに、また論議しようということで合意していた。それから何度もミーティングを重ね、朝の体拭き、おむつの替え方、緊急処置等の手ほどきを受け、酸素発生器やボンベ、ポータブルトイレ、車いすのレンタル、介護タクシーや訪問看護師の手配と、ことはめまぐるしく動いた。

そんな10月17日また父を車いすに乗せ院内を徘徊していた。母も店を抜け出してきて加わり、1階のコンビニ横のベンチでコーヒーを手にたわいのないひと時を過ごしていた。知り合いの女性が声をかけてきた。父は挨拶をし、母との雑談を無言で聞いていたが、最後にかすれかけた声で言った。

「80まで生きられるやろかと思いよります。」

父も闘っていた。

 

今日のコラージュ 『漂流』

 

 

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