Vol. 1-10 せん妄

毎朝のように行われるレントゲン撮影の結果で父に胸水と腹水がたまっていることはわかっていた。肺に水がたまると聞けば素人なら恐怖におののく。呼吸はできるのか、溺れてしまわないのか。主治医は胸水を抜く手段はあるが、少しの確率にしてもリスクはあると説明した。そして当時の父の状態では胸水を抜いたとしても命が永らえることはないといった趣旨のことをさらりと話した。家族と医師の間に理解とコミュニケーションの点で壁ができていた。10月19日朝、私と姉が病棟のラウンジで看護師と話していると主治医がふと現れ、「チームの合意で胸水を抜くことにしました。」と告げた。それ以外の情報はなかった。間もなくして病室に帰ると、主治医が看護師一人と上半身裸でベッドに右向きに横たわる父の傍におり、処置の最終段階にいた。予期しない出来事に、見てはいけないものを見てしまった気がして即ドアを閉めたのだが、気を取り直してもう一度開けた。主治医は胸水を1リットルほど抜いたと父に告げた。父は黙って壁を見つめていた。怖かったかもしれない。そこにいてあげられなかったことが非常に悔やまれた。

その日は面会が多く不思議な日だった。まず父の妹が来て、弟子が来た。父はベッドに腰掛け興味なさそうに無口でいたが、客の名を尋ねると正しく口で答えた。面会者が途切れた間にお見舞いで頂いた箱を開けるよう父に促すと、無造作に何度か包装紙を爪で引っ掻いて糊しろを探しあて、そこから少し破ってやめた。その頃父の変化に気づいた。脱力感の上に歯ぎしりをしている。次第にベッドに座ったまま挙動不審なふるまいを始め、奇声を発し、顔や耳の帯状疱疹を乱暴にかきむしるようになった。焦点が定まらず、とにかく意味不明にせわしない。夕方には訪問看護師3名と緩和ケアの看護師そして私と姉の計7名が病室の狭い空間にいた。週末の打ち合わせと、訪問看護師たちが父に会うためだった。その間も父は自閉症の子供のようにふるまい、いきなり隣にいた看護師の手を3回叩いた。痴呆が突然始まることはあるのかと看護師に尋ねると、これは「せん妄」というものなのだと話してくれた。栄養やミネラルのバランスが崩れ脳の働きを妨げ興奮状態を生むというもので、末期がん患者によく見られ、そこから回復することはないのだと教わった。その後は頭痛を訴え、トイレの後立たせると突然蒼ざめ荒い息づかいになったり、ベッドに寝かせても常に手足を動かしあらゆるものを掴んで暴れた。精神安定剤を注射し鎮痛剤を投与してしばらくしてようやく眠りに落ちた。

父が赤ん坊になっていく、怖かった。病室に泊まる母のためにも、朝まで眠っていてくれることを願った。

 

今日のコラージュ『どん底』

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