Vol. 1-11 記憶

父は母と生花店を経営する。今年で創業52年目を迎えた。父の病室は常に花で飾られていて看護師の間でも評判だった。母は新聞紙に包んだ花を病室の父に託し、大きめの花瓶に生けさせるのだった。入院中の週末に父を一時帰宅させる時であろうと、退院直後であろうと母は店の作業台の前にいすを置き、そこに父を座らせてアレンジメントを作らせた。母は容赦しなかった。最後に父が花を生けたのは10月4日の病室で、その週は病院付属の看護学校から学生たちが実習に来ていた。父はその日父の担当だった女子学生に花を生けさせ、それに辛口のダメ出しをしてから自分で生け直したのだという。花に関してはいつまでも真剣だった。

2017年10月20日外泊の前日、父の精神状態は前日より落ち着いていた。いつものようにベッドに腰掛けていると、この日はなぜか左に倒れようとする。壁かベッドの柵に頭をぶつける危険があったので、私が終日父の左側に座って支えていた。姉がしおれかけた百合の花びらを拾ってテーブルに置くと父はそれをゆっくり手に取り匂いをかいでみせた。花を愛する本当の父はその遠のいていく記憶の中にまだ存在していた。

午後になって緩和ケアの看護師が病室を訪れ、姉と3人で翌日の予定の確認などをしていると、それまでうつむいてじっとしていた父が突然言った。

「長いものは長い。短いものは短い。ちょうどいいのがちょうどいい。」

3人の女たちの目が点になっていたのは言うまでもない。禅問答かと頭をひねってしまうこの意味不明の文言を父は目の前のテーブルの上に両手を出し、手ぶりを混ぜてはっきりと大きな声で言った。そしてまた力尽きてうなだれてしまった。しまいには私の肩にカクンと頭を預けた。一瞬だけ脳の回線がつながったのだろうか。父は何を思ったのだろう。花の茎を切ってアレンジメントを生けるのに適当な長さに揃える場面を想像していたのだろうか。永遠の疑問である。

その夜いつもと同じく家族全員で夕食を取った。父はもうしばらく口からものを食べていなかった。しかしこの夜、母が「どう?」と納豆巻き寿司を箸でつまんでみせると、意外にも父はそれを口に入れた。全員の真ん丸な目が父にくぎ付けだった。その後も父は納豆巻き3個、ワカサギの南蛮漬け半尾、卵焼き、いなり寿司、サラダ2口、肉じゃが2口、鶏のから揚げ2つ、ほうれん草とベーコンの炒め物2口を立て続けに食べ、ストローでお茶を飲んだ。奇跡だった。

末期がん患者は、食べられなくなると栄養補給を点滴に頼り、鎮痛剤と共にステロイドが投与されるのだそうだ。そうすることで活力が保たれる。やがてステロイドも効かなくなると、最終段階の処置として眠らせる方法を取るのだそうだ。父の精神の中にはまだ本当の自分が存在し、それがある物事をきっかけに時々顔を出すといった状態だった。父はステロイドの効果がなくなるぎりぎりの線上にいたのかもしれない。ある医師が姉にアドバイスしていた。ステロイドが効いて意識がはっきりしているうちに自宅に一時的にでも帰してあげることだ。

翌日父を連れて帰宅した。

今日のコラージュ『シャボン玉の中の文明』

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